僕の人生、変な人ばっかり!

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料理人の「背中」を見るのが好きになった話

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 こんな世の中になってしまって思い出した、一人の料理人とのやり取り。

 

 そのラーメン屋には、平日昼の営業時間ギリギリに行った。

 

 僕が知る限り、人の過去は目に見えない。でも、どこかで情報は発してる。例えば、表情や言葉遣いなどがそれにあたる。最もわかりやすく言えば、関西弁を使う人に対して「関西出身なのかな?」と思うように。

 それと同じようなことが、お店に入った瞬間に起きた。

 

 お店の中のどこを見ても、店主の好きなもの、店主の納得できるものだけしか存在しない世界……そう感じさせられた、と言った方が正しいかもしれない。広い意味で言えば、どのお店もそうだろう。何一つこだわりがないお店の方が珍しい。

 カウンターの席数や店内のBGMもそうだ。椅子一つにしても、高さや座り心地、隣との幅が考えられている。客が食べる環境を整えていること、そして一人ひとりと向き合えるようにしていること。そのように考えられて設計されているとしか思えなかった。

 飲食店を食べ歩きまくっていると、「ここはこうした方が良いのにな……」なんて思ってしまうことは少なくない。しかし、このお店にはそれが全くなく、他人の思考が入り込むスキのない完成された世界観があった。

 

 注文後、カウンター越しに、ラーメン作りに取り掛かった店主を見ていた。その一つ一つの手つき……例えば、器にタレを入れる、麺の湯切り、トッピングをのせるなどの動作。そのどれもが最短かつ最丁寧なのだ。そして、この人の中で「流れ」があることが伝わってきた。

 これまたおこがましいのだが、僕が家庭料理を上達するキッカケになった一つが、この「流れ」を掴んだことにある。具材を切り、炒め、味付けしていく過程で手際よく進めていくと「いい感じやな……♪」とふと思う瞬間がある。それに似たような感覚があると感じていた。

 

 伝わらなければ意味がない、とは言わないけれど、伝えたくても伝わらないことが多い世の中で、ここまで伝わってしまう。ラーメンを食べてもいないのに、僕は店主のことが知りたくてたまらなくなった。どうして一人でお店をしているのか、このお店を開くまでにどのような過程があったのか。

 ……しかし、ここはラーメン屋である。仮に美味しくなければ、ただのこだわりが強いお店になるだけ。

 

 結論から言えば、今まで食べたラーメンの中でも一、二を争うくらい美味しかった。麺とスープの絡みが抜群で、常に味を変えられるように配慮されたトッピングの数々。チャーシューの切り方一つにしても、美意識と手間を感じた。

 とは言え、僕が正しく解釈・理解しているとは限らないし、できるとも思えなかった。けれど、いちいちメッセージを感じさせてくる店主のセンスに、胸がいっぱいになっていた。

    試行錯誤がどれだけあったのかはわからない。ただただ、辿り着いての今(=目の前のラーメン)を味わうことが出来る幸せを感じていた。

 

 どのお店にも過程やこだわりはある。けれど、「勝手に伝わった」ということが何よりも違ったのだ。いろいろなことが初めての経験だった。

 

 当時は20代の前半で、厚かましいという気持ちはあったが、思いを抑えきれなかった。休憩時間ギリギリに入店したことも良かったかもしれない。店内で一対一になったこともあり、感じたことを伝えた。どう切り出したのかは覚えていない。ただ、

「(周囲の大人よりも相対的に見て)とてもいい表情をされている」

 そう言ったことだけは覚えていて

「それは自分の好きなことをやってるからですよ」

 と、ややはにかんで答えてくれた表情を覚えている。忘れられない。そして、店主は話してくれた。

 そもそも、独立なんて考えたことはなかった。ずっと誰かの下でやってきたけど、いつも不満があったと。

「もっとこうしたい、もっとこうすればいいのに」

 しかし、それを言うといつも上の人とぶつかる。そして、辞める。それを何回も繰り返してきたある日に、ふと思ったと言う。

「自分の好きなようにするには、結局、自分一人でやるしかないんだ」

 それを悟ってからは、また違った苦労があった。お店を開くまでが本当に大変で、物件一つにしても貸す側は渋るのだと。だから、あまり立地の良くないこの場所になった。ラーメン屋を一人で開くことに対する苦労だけで、お店として成り立たせるだけで、どれだけ大変なのか。

 幸い、今ではお客さんに来て貰えるようになった。でも、正直、全然儲からない。週に三回は仕込みで徹夜をしている。それでも、やりがいがある。なぜならば、好きなことをやっているから。

 そして、

「最近になって、ようやくこのお店を理解してきた」

 と語ってくれた。自分で開いたお店なのに、理解するまでにこんなにも時間がかかるとは思ってもいなかったと。ここまで至るには、自分にはこれだけの苦労と時間が必要だった。今ならばそう思える、と。

 

 感銘の連続だった。もう、うれしくてうれしくてたまらなかった。食べ歩きをしていると、こんな感動があるのか。

 けれど、振り返るとそれは違うことに気付いた。人と接して、人の過程を知って、その人が表現したものと僕の人生がリンクする。このような時間の共有を、「出会い」と定義している。「出会い」があると、こんな感動があるのか。こちらの方が正しい気がしている。

 しかし同時に、自分の中に引き出しがないことを自覚していた。「お店を理解してきた」という感覚がわからないのだ。

 正直、未だによくわからない。なぜこの場所にお店を開いたのか。導かれるように、すべてはつながっていると思えたからなのか。継続と精進の果てに辿り着いた境地のようなものなのだろうか。長年抱えていた悩みが急に解決、心の澱が消え去るような。そのようなイメージを抱いているが、やはり本人に聞いてみない限りは断定したくない。

 

 次に行った時、

「ありがとうございます」

 が

「まいどありがとうございます」

 になっていた。

 

 東京にいる間は何度か通った。もう何年も行ってないけれど、今でもたまに無性に食べたくなる。

 

 

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