「薬剤師国家試験に落ちた彼女を、僕は隣で見ていた」第二十話。試験本番を終え、その日の深夜に行った二回目の自己採点の結果など。
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2015年3月1日の深夜
パソコンに解答は入力した。あとはクリックするだけだ。
「するよ?」
と言った彼女に対し、
「……いや、やっぱり一回落ち着こう」
と言った僕の方が、なぜか緊張していたと思う。人の心臓は実に良く出来ている――と感じていたことを覚えている。心臓から鼓膜へ、鼓膜から耳へ。ものすごい振動が頭の中に響いていた。気持ち的には今にも破裂しそうなのに、この状況になっても鼓動が早まるだけだったから。
今から、人の人生が変わる瞬間を見る。
道は二つあって、一つは良い方でもう一つは悪い方。ハッキリと良し悪しを言い切れるあたりが国家試験の怖ろしさだと言える。この自己採点の結果次第で、「採点する」のボタンをクリックするだけで、向こう一年の過ごし方が決まってしまうのだ。
極度の緊張は去年と変わらない。けれど、緊張の種類が違う。なぜならば、今年は絶対に大丈夫という自負があったから。やれることはやってきたし、それを見てきたから。
「押すよ」
そして、カチッと押してからの数秒の無音の後、
「……ダメや。足切りにあっとる」
彼女はぽつりとつぶやいた。
「お母さんに電話してくる」
彼女はそう言って部屋を出た。
止まった時の中に僕だけが存在しているような錯覚に陥った。「ウソやろ?」と言った去年とは違い、何一つ言葉が存在できない空間があった。何が起こったのかわからないと、どうやら無になるらしい。
無から戻るきっかけになった最初の言葉は、「なんでこうなるんだろう」だった。
……なんでこうなるんだろう。
なんで……。なんで? なんで? と何回も反芻しているようで、思考はしっかりと止まっている。目に入ったパソコン画面に映っていたのは、250点を超える合計点。模試の傾向から考えれば、合格には十分すぎる点数だ。
しばらくすると、隣の部屋から嗚咽が聞こえてきた。
なんで、こうなるんだろう……。
部屋に帰ってきた彼女は、泣いていた。ただ、去年とは違った。泣き叫びたくなる衝動を抑えるように、全身で声を殺していた。
「……お母さん、なんて?」
「どうするつもりなんね? って」
どうするつもり? か……。相手がこれからどうすべきかを聞きたいのは当然だ。しかし、これからどうすべきかを最も決めたいのはこちらも同じなんだよ。目標を失ったばかりの人間にする質問としては、あまりにも残酷すぎる。実現させたい未来のために今を積み重ねてきたのに、それが失われる。しかも、一番聞かれたくない時に限って聞かれる……それが「これからどうするの?」という質問だと考える。
けれど、質問者の立場を考えれば、これからどうするかを聞くしかない。それだけの人・お金・時間が動くから。
「こんなに点数取れんでも良かった……」
普段は全く泣かない彼女だが、顔面が変形しそうなほど涙を流していた。
去年の状況が可愛く思えるくらい、非道い現実がたしかにあった。人はよく、「死にたい」と口にするだろう。それなりに生きていれば、別に不思議でもない。でも、その概念すら存在できないような現実があった。
なんでこうなるんだろう……。
努力が報われない。その人を間近で見るのは、耐え難いものがある。……見ていられない。見ていられないけれど、僕は彼女のことを誰よりも知っている。目を閉じても、そこで泣く彼女の姿が浮かんでしまう。
正しい言葉を選ぶことが出来るかはわからない。けれど、今この場で向き合えるのは僕しかいない。
「今日は遅いけ、もう寝り」
としか言えなかった。
去年と違ったのは、僕の涙が出なかったこと。そして、ベッドから鳴り止まない彼女の嗚咽だけだった。
つづき
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